昭和46年05月30日 朝の御理解



 御理解 第12節
「神に会おうと思えば、にわの口の外へ出てみよ、空が神下が神。」

 御道の信心をさせて頂くものが、先ずここのところを素直に頂けれる素直心が無からなければ、お道の信心の根本的なところは分からないと思います。そこに求められるのは素直心。神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ、空が神下が神。なんでもないじゃないこれが神様かと、空が神下が神、いわゆる天地そのものを神、これが神かと。庭の口を外へ出てみたら、それこそ、絵で見るような白髪を生やした、神様の様な神様がそこにござるというのではない。
 なんの変哲もない。いわゆる空が神であり下が神である。ほどしの金光様が天地金乃神様というて拝まれる神様はその、天地なのです天地そのものを神様と頂かれた。しかもその偉大な天地の中に、天地のいわゆる神様の働きを、教祖の御信心によって体得しておいでられた。そこから天地に詫び天地に縋り、天地に礼を言うそういう信心が教祖のそういう一つの神観というかね、から御道の信心が生まれたというわけであります。ですから本気で私共が素直にならせてもろうて、天地に縋り有る場合は願いね。
 又は礼を言う、またはお詫びをするという、姿勢を取らせて頂かなければ、そこに成程空が神だなあ下が神だなあと言う事が分かります。天地の一つの息吹とでも申しましょうかね、神様のそういう息吹神様が生きてござる、天地が生きて働いてござるというその生きた働きに対してまず、感謝の心。今日もおかげを頂いて、お生かしのおかげを頂いておるという事をまず申し上げる。それもただ、通り一変のお礼ではなくて一心の真を捧げてのお礼になってくる。
 そこから神様を自分の肌でまたは心で感じとらせて頂くことが出来る。天地にあるというても同じ事ね。「天地に対して無礼いたし、前々のめぐりで難を受けおる」と仰るのですございますから、天地に対するところの無礼、いわば天地の働きそのものに対する素直な受け方が出来る。人間の知恵やら憶測で天地に墨金を当てるような、天地を計るような生き方ね。御理解三節にありますね。
 「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」空が神下が神いわゆる天地、その天地の間に私共はおるのである。天地の間におりながらそのおかげを知らず。天地のご恩恵を受けておると言う事のそのわけも知らず、ただ、そこの神様じゃ仏様じゃというて何かそこにござる、そこに奉ってあるそれが神様であると思うたり、仏様だと思うたり。そして天地に対してのいわゆる無礼をする。「氏子の神仏の宮寺氏子の家屋敷皆神の地所ね。その訳知らず方角日柄ばかりみて無礼いたし。
 前々の廻り合わせで難を受け御る」と。言う様なことが分かってくる。天地に対する、いわゆるご無礼そこが分かってくるところから、いわゆるお詫びね、もうそれこそ親の又親、先祖代々からいわば、天地に対するところの御粗末御無礼。いわば天地に対するところの御恩恵に対する見方。それに例えば神仏の宮寺氏子の家屋敷皆神の地所。その訳知らず方角日柄ばかり見てと。いわば検討違いの事ばかりを思うてきた。ここんところはそういう風に頂くですね。検討違いの思い方をしてきた。
 そこで例えば家を建てるにもここは、方角が良いの悪いのと言った様な事がです、どの位天地に対するご無礼になってきたかと言う事。そう言う事が前々のめぐりになって難を受けおると。そこからこの度金光大神を差し向けと、願う氏子におかげを授けと言う事に展開してくるわけであります。いわゆる天地に詫びるね。ですからもう私共昔の昔のところから、天地に対するところのお粗末御無礼、前々のめぐりの元がね前々からの、そういうご無礼がめぐりになり難を受けおる。
 難儀を受けておるその元がそこにあるのですから、元の所から詫びなければなりません。だからそこの所をですね、素直に詫びると言う事です。知らぬ事とはいいながら、先祖代々から天地に対する所の、御恩徳も知らずただ、仏様を拝みました神様を拝んできたけれども、天地そのものを拝む。天地そのものの天地の大恩に対して、心を向けていなかった。知らぬ事とは言いながら、そこに御粗末が出来てご無礼が出来て、検討違いの生き方ばかりをしてきました、と言う事が素直に素直に詫びられると言う事なの。
 もう限りないお詫びが、そこから成されるわけなんですね。いわば天地に縋り願い、いわゆる天地に詫びる。そこから改めて私共はその天地の大恩を素直に分からせて頂くところから、天地に対するところのお礼。御願いをしておりましたらこの様な、おかげを頂きましたというお礼と言う様な、いわば浅いものではないね。いうならばもう、それこそ昔の昔から受けてきた先祖達が、お礼を申し上げなかった事までもお礼申させて貰い、天地の御恩恵に浴して。
 今日おかげを頂いておると言う事に対しての、心からの所のお礼を申し上げる。ですからよっぽど素直にならんとねそれは出来んのです。それはもう先祖代々からご無礼しとったのを、俺達がお詫びせんならん。先祖代々が受けてきた、天地の御恩恵を自分達がお礼をいわなならん。と言う様な事ではね、いわゆる前々のめぐりで難を受けおると、仰せられる前々のめぐりの元、難儀の元のところから詫びたり願ったりまたはお礼を申し上げたりという、そこんところをね本当に素直にならんとそれが言えん。
 心から。ただ目の先の自分のおかげを頂く事だけ。ただ自分が今頂いておる処だけのお礼やらお詫びやらではなね、浅いものになる。天地は偉大であるように、又はその深さ広さ、その深さ高さね、というそれこそ、海よりも深く山よりも高くという、そういう御恩恵に対してど私共がどれほど、お礼を申し上げても詫びても、もうこれで良いというほどはないほどしの深い深いお詫び、いわゆる深い深い私は祈りというものが、そう言う所に根ざしたお礼であり、お詫びでなからなければならないと思う。
 ですから、ただ今私が申しまして参りました事を、本当にそうだなあと素直に受ける心なのだ。信心とは。そこにですね、素直にそれこそ雲の上まで登る道がついてくるのである。「素直心の一つにて雲の上にまで上る道がある」。登れると仰せられる。金光様の御信心の根本の祈りとでも申しましょうかね、根本のいわば、お礼でありお詫びであるというのはその様な所から私は素直に始められなければならないと思う。そういう私は信心からはっきり神に会う事が出来るというのはね、そこん所ができて初めてね。
 ただ教祖が教えておられますように、神様に会いたいと思えば庭の口に出てみよと、空が神だ下が神だと、これが神かと言う様な浅いものではなくてです、それこそ天地の働きの神縁さと言った様なものをですね、私共素直に詫びたり礼を言うたりするような、心の状態からそこにはっきりなるほどという地が。神様だなあと空が神だなあ下が神だなあといういわゆる、これはもう理屈でなしに、実感がひしひしと自分達の心の中に、神様が入って下さるというおかげが受けられるのです。
 毎朝、皆さんも暗い内から、合楽に合楽にというて通うてみえられる、その道すがらでもです、その天地の霊気とでも申しましょうかね、天地の息吹に触れさせて頂いて、何とはなしに有り難いという心の中に強く感じられるなら、それだけ神様を強くまたは深く感じとっておられるわけですね。本当に天地に向かって、どこを相手という訳ではないけれども、思わず柏手しなければおられないね。そういう神様をですね私共は自分の心の中にはっきりしていきたいと思う。
 そういう私は実感こそ我、神と共にあり、同行二人と言った様なこれはもう実感の問題であるね。が感じ取られてくる。その感じ取らせて頂く度合いがね大きければ大きいほど深ければ深いほど、私はおかげが大きいと思う。深い深遠な御恩恵にいよいよ浴して行くことが出きると思う。昨日、日田の麻生さんが朝の御祈念に御参りなっておりませんでしたが、午後から夕方参ってこられた。
 そこで綾部さんと一緒になりまして、丁度敬親会、昨日は敬親会でございましたから、敬親会を終わらせて頂いて、御二人に色々な御届またはお話しを聞かせて頂いておる中に、麻生さんがこう言う事をいうておられます。「私共、まだようやくここに何ヵ月かしか信心、毎日御参りをするといいながら、まだここ4ヵ月にしかなりません。それでその皆さんと一緒に御祈念をしておっても、まあ幼稚な祈りになってきます。
 皆さんが大祓いを上げられたりまたは拝詞を奏上されたり、何かその拝詞がなんとはなしに空空しいものに感じられます。世界総氏子の身の上安全とか世界真の平和とかというような事が、何か実感として湧いてまいりませんと。そこで先生実は私は幼稚園は幼稚園なりに、私の拝詞を作りました」と。言うておられます、私はその拝詞を毎日自分でそのことを暗記しておられることを、聞かせて頂いてもうその一言一言が、真に迫った実感的なはあ、これは素晴らしいこういう祈りの言葉が。
 これはいうならば初心の方達だけではない、みんなの拝詞にしてもいいですね、というて聞かせて頂いたのですけれどもね、その中にねその、神様いわゆる「天地日月の心にならせ下さい」と願っておられる。天地に向かって。天地日月の心にならせてください。天地の心の添う生き方。この事が色んな角度からあの、まあ金光教という大きな中ではなくて合楽という教会の中で、こういう私は願いを持っております。こういう願いを御聞き届け下さい、と言った様な事がずっとこう箇条書き的に、もう私それを聞かせて頂いてですね感心しました。
 もう私それを聞き終わってからねもう、麻生さんこう言う様な願いならば、神様が絶対聞いて下さるだろうねと、言う様な願いであった。今度はぜひそれをまた写してもろうて、皆さんにも聞いて頂きたいと思うのですけれどもです。いうならばご理解を頂いて、天地の心が分からせてもらい、信心御道の信心させてもらうなら、どうしても天地日月の心になること肝要なりと仰せられるその天地、そうだと感じられたわけです。人間は成程実意丁寧な生き方をしなければならんが。
 もう本当に実意を欠いた生き方ばかりをしてきておった。そこで天地日月の心になる事をならせて下さいと願っておられる。どうでしょうか。どうぞ今日も天地日月の心になる事を本気で勤めさせて下さいと、言った様な願いをしておる人は、そうは沢山はなかろうね。そういう願いが素直に出きるおかげを頂きませんとです、いかに空が神だ下が神だといわれてもです、それを本当にそれを神として実感できないのです。思わず拍手を打つと言うた様な事になってこない。
 で私はこの今朝十二節を頂いて、これはもうこれだけいうならば金光教の、でいう神観いわゆる神様を金光様の御信心で、拝まれる神様はどげな神様ですかと、それは空が神下が神、いうならば天地そのものが神様ですよと、説明が出来思うておってもです、その神様を本当に神として頂けれる実感がなかったら、値打ちはありませんものね。そこで私は天地の働きの神縁さ、偉大さそういうものを深く広く感じとらせて頂く為に、素直に祈り、それは昔の昔から先祖達が受けてきた、その御恩恵に対してのお礼を言う。
 天地に対して、前々のめぐりで難を受けおるとはっきり数えられる位ですから、その現在感じておるその難儀の元がです、そういう前々からの天地に対するご無礼がめぐりの元に難儀の元になっておるのだと思うたらもう目先の事だけのお詫びではないね、神縁なお詫びが出来る。深いそこが素直にならなければね。だから私今日十二節、神様を素直に神様にあえれる神様と、庭の口に出てみては、本当に神とこう実感出来れる。
 肌で感じれれる心で感じれれる神様と頂けれる事の為に。一番必要なのは素直心だと私は今日は思いました。ですから、そこんところを素直な心で天地に詫びる、天地にお礼を申し上げるね。そこからね、いわば見神する事が出来る。そこに本当の意味での神を見る事が出来るね。本当に同行二人。なるほど神様は我と共にあるという実感がです湧いてくる。水道の蛇口をひねってジャーと冷たい水が出る。
 もう不思議で不思議でたまらん。触れれば冷たい水がもうそのまま神様の御姿、神様の体に触れる思いでで、、一掬いの水が感じれれるようなおかげを頂くと言う事。いよいよ、私ともは素直に麻生さんではないですけれども、その天地の心知りたしと信心する。分からせて頂いたその天地の心に添いたしと精進するね。様々な難儀な問題様々なまあ難儀な問題だけでは、様々な問題を通してです、天地の心知りたしと精進する。そこらから、心が会得できる、体得出きる。
 その天地の心にだから今度は添わせて下さい、天地日月の心にならせて下さいというね、純粋なお道の信心がそこにあるわけです。どうぞ病気を治してください。どうぞ金銭のお繰り合わせを下さい。と言う様な事がね、実をいうたら実に儚い願いであると言った様なね、そしてそれを頂いた時にはね、お礼を申し上げると言う様なお礼が、本当に浅薄のものだと言う事がね、もっともっとそれよりも、大きなおかげを受けておると言う事に対して、ご無礼が出来ておると言う事に対して詫びる、お礼を言うという信心。
 そして、例えば昨日のご理解を思うてみるね。「生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり」と金光教の信心をさせてもらうものの全てがこれを、何回ともなしに繰り返し繰り返し、唱えさせてもらい拝ませてもらうけれどもね、謙虚に詫びると言う事。謙虚にお礼を言うと言う事。その詫びたりお礼を言うその心が、和賀心に一番接近した心だ近い心だと。しかもね、その詫びるというその姿勢で、天地書附を奉唱しなかったら、空念仏にも等しいとまで表現した、ご理解でしたね昨日の朝のご理解。
 親鸞上人様が南無阿弥陀仏を言えば助かるとこう言われたが、どんな悪人でも助かると言われたがね、唯、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏というただけでは、これは空念仏になるのだと。親鸞上人様ですら、いわば日本一の大悪人とご自身を喝破された。自分を見られた。そういう大悪人の自覚にたっての、南無阿弥陀仏でなからなければ、効果がないというのである。助からないというのと同時にです、私共がです。
 本当に屑の子の自覚というのが出来てね、本当に私のようなものがという、屑の子の自覚がで出来て、天地書附を奉唱させてもらうところからです、ね、いわゆる南無阿弥陀仏だけを言えば助かるといわれるように。天地書附だけを奉唱させて頂けば助かられることになるのだと言う事を、言う様なご理解に繋がってくるのではないですか。しかもその詫びると言う事が、自分が悪い事をしてからその事に対してのお詫びでと、言った様なものではなくてです、天地に対するところのお粗末ご無礼。
 しかも昔の昔の、自分のいわばね、遠津組代々の祖です。いわゆる先祖代々からご無礼をしてきたその御無礼に対するところの、お粗末御無礼に対する深遠なお詫びに立脚しての天地書附であるという処にですね、私は本当の金光様の御信心の神髄というかね、それに触れる事の出来れるおかげが受けられるね。お礼が浅い。お詫びがそういう深いところから根ざしたところの、お詫びが素直に出きるところから、素直にて確かに雲の上にまで上る道が開けてくるのだという風に思うのです。
   どうぞ。